このたび昭和館では、「戦後復興までの道のり—配給制度と人々の暮らし—」と題して、特別企画展を開催することとなりました。
昭和12年(1937)、日中戦争が始まると政府は戦争遂行のため、「モノとカネ」に対して統制を行い、企業は自由な生産販売や価格の設定も制限されました。さらに戦争の長期化に伴い、人々の消費に対しても統制が行われ、配給切符・通帳を持たずに物品を購入することができませんでした。
戦争が終わっても、さらに苦しい生活が続きました。配給は遅配や欠配が続き、非合法な買い出しや闇市で、法外な値段で生活必需品を入手するしかありませんでした。しかし、22年から順次統制が撤廃され、31年の『経済白書』では「もはや戦後ではない」と記され、その後日本は驚異的な復興をとげたのです。
本展では、実物資料・写真・手記などにより、戦争による物資不足のなか、どのような工夫により暮らしをやりくりしたか、また終戦直後の混乱期を生きぬき、いかに復興をなしえたかを紹介します。
主催 | 昭和館 |
会期 | 平成23年7月23日(土)~8月28日(日) |
会場 | 昭和館3階 特別企画展会場 |
入場料 | 特別企画展は無料(常設展示室は有料) |
開館時間 | 10:00~17:30(入館は17:00まで) |
休館日 | 毎週月曜日 ※ただし8月15日(月)は臨時開館 |
昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると、もともと金属や燃料・皮革・綿花などの重要資源に乏しく輸入に依存していた日本は、これらを優先的に軍事物資に振り分けざるを得なかった。そのため年度ごとに国家的見地から、輸入力と国内の供給力の限度内で「物資動員計画」が立案され、それに沿った配分が行われた。
また、軍需景気とインフレーションにより物価が上昇したので、政府は指定した物品に対し14年9月18日時点の価格で、強制的に価格を停止させた。様々な質、規格がある10万点にもおよぶ商品一つ一つに「公定価格」を設定し、販売者は自由に価格を決めることができなくなった。
◆資料紹介
公定価格(マル公)の表示されたちり紙
昭和14年(1939)10月公布の「価格等統制令」により、同年9月18日における金額に価格が停止され、価格停止品と呼ばれた。ほかに業者の組合で協定して官庁の許可を得た協定価格品や、政府の設定した公定価格品等がある。昭和15年6月からそれらの品であることの表示義務が課せられた。
戦局が長期戦の構えを見せ始めた昭和15年(1940)6月から、6大都市(東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸)で砂糖・マッチの切符配給制が実験的に実施された。これは切符の提示によってのみ物品を購入することができるというもので、同年11月には全国で実施され、次第にその品目は米などの主要な食糧、その他の食料品、衣類、木炭などの日用品にも及んだ。
しかし、年を追うごとに計画的な配給ができなくなり、配給切符や通帳があっても配給所には品物がないという事態がおきるようになった。さらに19年11月以降、主要都市への空襲が本格化して被害が全国的に拡大し、混乱に拍車がかかり、食糧の配給状況は悪化の一途をたどるようになった。
◆資料紹介
家庭用米穀通帳
生徒制服(上)
倉谷弘男さんが昭和18年(1943)に清水中学校に入学の際に購入したもの。着ているうちに痛んできた部分に、母親が継ぎをあてて着用した。
「配給物絵日記」
版画家の小泉癸巳男が、昭和19年(1944)から配給された物品を記したもの。当時東京都下谷区(現・台東区)池之端に夫人と2人で居住しており、配給の日付・品目・数量・値段等とともに、水彩によって配給物の挿絵が描かれている。
戦争が終わり、空襲におびえることはなくなったが、物資不足により人々の暮らしは戦中を上回り、一層苦しいものとなった。食糧や生活必需品などは引き続き配給制が取られたが、遅配や欠配が続き、都市部では餓死者も出たほどであった。人々は正規の配給量だけでは飢え、特に都市部の人々は、農村部への買い出しに行ったり、闇市で法外な値段で入手したりするほかになかった。また、衣類は物々交換の際に食糧と交換され、破れても丁寧に繕いながら着用するのが一般であった。
政府はこの食糧危機に対して、GHQ(連合国総司令部)に食糧輸入の承認を求め、昭和21年(1946)2月に米軍の余剰食糧である小麦粉が引き渡された。これを機に世界各国やユニセフ、国際NGOから様々な援助が行われ、危機的状況を回避することができた。
◆資料紹介
「餓死対策国民大会」
終戦後も主食配給量は絶対的に不足し、さらに予定の配給量が遅れる「遅配」と、配給が取り消しになる「欠配」が続いた。食糧不足が一層深刻となり、多くの餓死者が出るとの危機感がもたれた。この大会は、昭和20年(1945)11月1日に東京・日比谷公園で開催されたもので、配給量の確保を政府等へ訴えた。
昭和20年(1945)11月
空き缶(乾燥鶏卵)
進駐軍からの放出物資として、町会を通じて配給になったもの。大さじ1杯半を水大さじ4杯で溶いたものが生卵1個分に相当し、かき玉汁や薄焼き卵に利用した。
ポスター「節電について」昭和26年(1951)
昭和26年(1951)10月、本州中央部全域に対して公布された、「電気需給調整規則」第十四条に基づく電力使用制限告示の内容を知らせたポスター。ネオンサインの禁止、休電日の指定、毎日の使用限度量を定めるなど、厳しい制限となっている。
日本経済の復興に伴う電力需要の高まりは、深刻な電力不足を招いた。特に26年8月上旬から10月上旬にかけて夏季異常渇水は、当時主流であった水力発電に大きな打撃を受けた。 この時の電力不足に伴う、休業時の休業手当に関する厚生省(現・厚生労働省)通達(「電力不足に伴う労働基準法の運用について」)は、本年3月の震災を受けて、再度公布された。
昭和26年(1951)
世の中が落ちつきを取り戻していくと、食料品の生産量も増加し、厳しい統制下に置かれた物品も市場に出まわるようになる。そのため統制する必要もなくなり、再び自由に物品を売買することができるようになった。
昭和31年(1956)の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記され、日本は短期間に驚異的な復興をとげた。
◆資料紹介
ポスター「酒は酒屋でいつでも気軽に買えます」昭和24年(1949)
酒類自由販売のポスター。ヤミ酒や密造酒に手を出さないよう呼びかけている。戦中より続いていた統制制度も、世情の安定に伴い徐々に緩和や撤廃されていった。酒類への統制は昭和24年(1949)5月に解除され、自由販売されるようになった。同年7月には酒類配給公団が廃止され、酒造会社は自由に出荷・販売できるようになった。
昭和24年(1949)
日時 | 平成23年8月7日(日) 14:00~16:00 |
会場 | 昭和館1階ニュースシアター会場 |
定員 | 戦中・戦後の生活の様子を、体験者の方々(3名)にお話しいただきます。 丸山 一男さん 「母との買い出し」 齋藤 千恵子さん 「実家の商売と戦中の女学校」 羽山 桂之助さん 「終戦後の小学校教員として」 |
※当日13:00から昭和館1階ロビーで整理券(50枚)を配布いたします。
日時 | 平成23年7月30日(土)・8月20日(土)14:00~14:45 |
会場 | 昭和館3階特別企画展会場 |