このたび昭和館では、『旅は世につれ ~昭和旅紀行』と題して特別企画展を開催する運びとなりました。
旅の目的や手段は、時代によって様々に変化してきました。戦前には鉄道をはじめとした交通網も全国へ発達していき、観光も産業のひとつとして成長を遂げていきました。しかし、戦争の影響が強まってくるにつれて軍事輸送などが優先されるようになり、旅の目的も疎開や買い出しといった切実なものへと変化することとなります。戦災による被害や燃料不足・施設の老朽化により交通手段は戦後も悪化の一途をたどり、さらに復員・引揚げなど大量の人員移動も加わり、非常な混乱ぶりを示しました。しかし立ち直りも早く、戦後復興期には人々の生活が落ち着きを取り戻してきたことに加え、旅の情報提供、宿泊施設の整備も進み、旅行ブームが起こります。そして新たな交通手段の発展もあり、旅の目的も多様化していきました。
本展では戦前から戦中、そして戦後の混乱期から復興期へと、時代とともに変化した人々の旅をとりまく状況を、実物資料や写真で紹介します。
主催 | 昭和館 |
会期 | 平成16年2月25日(水)~4月11日(日) |
会場 | 昭和館3階 特別企画展会場 |
入場料 | 特別企画展は無料(常設展示室は有料) |
協賛 | 松下電工株式会社 |
国鉄の路線は大正時代にほぼ全国的な鉄道網を完成し、さらに昭和へ入るとスピード化が進められた。交通手段としては、近郊電車や乗合自動車が発達し、川船や人力車は姿を消してゆくこととなった。昭和5年(1930)から運行を始めた特急「燕」は、東京~神戸間をそれまでの特急列車から2時間以上短縮した8時間55分で結び、「超特急」とうたわれスピード時代の幕開けとなった。昭和9年(1934)、難工事の末、丹那トンネルが開通してさらに短縮された。昭和6年(1931)に開通した清水トンネルは当時「東洋一」とうたわれ、これにより上越線が全線開通するなど、交通網は発展を遂げていった。また、まだ一般的ではなかったが昭和4年(1929)には定期旅客航空も運行されるようになった。
折しも、第一次大戦後から昭和初頭にかけての不況や私鉄自動車の進出による減収に悩んでいた鉄道省は、旅客獲得のため列車のスピードアップや旅客誘致により運賃収入の増加を図り、「大衆旅行」が一気に広まった。昭和9年(1934)には国立公園が誕生するなど国内の観光地開発も進んでゆき、名所旧跡を訪れる旅行も広まった。また、外貨獲得手段として、外国からの来日旅行客の誘致も積極的に行われていた。
海外へ行く者は仕事や移民、留学などの目的が主で、まだ観光旅行として出かけることはごく希なことであった。外国へ行く移動手段は船が多く利用されたが、ヨーロッパへはシベリア鉄道を経由して行く方法もあった。いずれにせよ、今日とは比較にならない日程と費用が必要であった。
昭和10年(1935)頃から徒歩旅行であるハイキングが流行しはじめた。日中戦争勃発以降も、旅行の目的は心身鍛錬にあるという意見が強まり、名前を「錬成旅行」などと変えて盛んに行われた。時代風潮として、今までの享楽的な旅行の概念を一変して、祖国を認識して心身を鍛練するような「国策旅行」である史跡や遺跡巡りが奨励されるようになった。昭和15年(1940)は、紀元二千六百年記念式典が東京で開催され、約5万人の参列者があった。これに合わせて各地の神社神宮へも全国から多くの参拝客が詰めかけた。
戦火の拡大とともに多くの男子の元へ「赤紙」が届くようになり、出征兵士は家族と別れ部隊へと赴いていった。また、食糧が配給制になるなど十分に入手できなくなるにつれ、食糧を求め地方へ買い出しもされるようになった。
軍事輸送の増加で一般旅客を抑制するために、不要不急の旅行はやめるよう呼びかけられた。昭和15年(1940)からは乗車券制限などがされるようになり、鉄道省は「不要不急の旅行は遠慮して国策輸送にご協力下さい」とのポスターを各駅に張り出した。昭和19年(1944)には旅客列車が大幅に削減され、およそ100km以上の旅行には警察署での証明が必要となった。輸送機関の職員も次々と出征してゆき、女性の駅員が登場した。空襲の危機が迫ると都市部から地方へと疎開が開始され、多くの人員と荷物が輸送された。
度重なる空襲により、鉄道や船舶は大きな損害をこうむった。戦中は貨物輸送に重点が置かれ、客車の新造が行われなかったために列車は老朽化した。戦後は占領軍輸送への調達に使用され半減し、旅客輸送には貨車が使われることもあった。列車事情は深刻な石炭不足も加わり、大変な混乱ぶりであった。また、民間航空の運行は占領軍によって禁止された。
旅館やホテルでは昭和16年(1941)より宿泊料金も公定価格制がとられていたが、戦争末期には休業や官庁による借り上げにより、宿泊施設においても営業活動は制限された。戦災を免れた施設は、戦後も占領軍による接収を受けるなど困難な活動を強いられた。
食糧の遅配欠配が相次ぎ、生きるためには配給だけに頼っておられず、人々は自ら農村へ買い出しに出かけた。また、外地からの大規模な復員・引揚げも開始され、列車は殺到する人々によって屋根まで埋め尽くされるなど、非常な混乱ぶりを示した。
列車事情もようやく回復し、乗車券の発売制限も緩和されていった。非常措置として撤廃されていた急行列車や二等車も復活し、昭和24年(1949)には戦後初の旅客列車の高速運転が再開された。また、昭和26年(1951)には国内航空路が再開されるなど、旅行者の往来も活発化していった。
人々の暮らしぶりが落ち着きを取り戻すにつれて、ささやかではあるが、レジャーを楽しむゆとりが生まれてきた。旅行の目的地である観光地開発や観光資源の保護、旅行を支える交通手段や宿泊施設の整備、情報の提供も進んでゆき、団体旅行を中心に旅行ブームが巻き起った。
昭和31年(1956)に『経済白書』の中で「もはや戦後ではない」とうたわれ、昭和35年(1960)に池田内閣は「国民所得倍増計画」を発表、日本は高度成長期を迎える。これに伴い、観光旅行は国民生活に根付いていった。道路網の発達とマイカーの普及、新幹線の開通など、旅行目的と移動手段は多様化していった。長らくあこがれであった海外観光渡航も、昭和39年(1964)の自由化以来、飛躍的に増加の一途をたどった
遊び道具である双六の中で、海外の国々が題材となっているものを取り上げ、旅がどのように描かれていたかを戦前・戦中・戦後の三時代で比較する。今日と違って情報が氾濫していなかった時代に、子どもたちが双六によって世界へのイメージを膨らませていった。
東京への観光旅行は、他の観光地へのように物見遊山や名所旧跡をたどる旅行と違って、都会の流行の最先端を体験することにその本質がある。大正デモクラシーにお始まるモボ・モガの文化、戦後進駐軍によってもたらされたアメリカの文化、そして戦後復興期から集まり始める世界中の文化を、体感できるあこがれの街が東京である。
なかでも銀座は早くから東京の象徴としてあり続けており、「銀座の思い出散策」と題して銀座の街の移り変わりをサイバードームで紹介する。
旅の持ち物は、基本的な機能には多くの変化はないが、形や材質はそれぞれの時代によって変化している。ここでは荷物を運んだ各種のかばんをはじめとして、旅先の土産物、旅行用品の広告などを所有者のエピソードを交え紹介する。
サイバードームとは、半球ドーム型の映像システムのことです。これは立体映像を大型画面で表示するもので、「銀座の思い出散策」と題して現在の銀座4丁目交差点を中心に、戦中・戦後の写真を組み合わせて実際に散歩する感覚で紹介します。
3月20日(土・春分の日)・21日(日)・27日(土)・28日(日)
11:00~15:45(12:00~13:00休み)
2階広場にてミニSLを運行します。