昭和館

特別企画展

版画家が刻んだ昭和の彩り─館蔵版画集を中心に─

開催趣旨

 昭和館には、昭和の情景をテーマとする版画集など、約600 点の木版画が所蔵されています。
 所蔵品には、関東大震災から復興した街並みを複数人の版画家が描いた『新東京百景』や、空襲被害を受けた大阪の都市を回顧するため赤松麟作によって制作された『大阪三十六景』などが含まれ、急速な変化を遂げた昭和の街並みや人びとの生活が描かれています。
 本企画展では、当館が所蔵する版画集に焦点を当てて、版画家たちが木版画に刻んだ昭和の情景を紹介します。

主催昭和館(厚生労働省委託事業)
後援千代田区・千代田区教育委員会
会期令和7年3月15日(土)~5月11日(日) 
・前期:3月15日(土)~4月13日(日)
・後期:4月15日(火)~5月11日(日)
※前期と後期で、一部展示資料の入れ替えを行います。
会場昭和館3階 特別企画展会場
入場料無料
開館時間 10時~17時30分(入館は17時まで)
休館日 毎週月曜日(4月28日・5月5日は開館、5月7日は休館)
チラシ「版画家が刻んだ昭和の彩り─館蔵版画集を中心に─」

展示構成

プロローグ 木版画前史

 江戸時代に浮世絵として人気を博した木版画は、安価で量産可能な性質から広告や包み紙、新聞錦絵、報道画などに用いられ、日常生活に根付いていました。しかし、明治期以降、活版印刷や写真技術が国内に流入すると、木版画の需要は激減します。
 この状況を危惧した画家や版元たちにより、明治末期から昭和初期にかけて木版画を再興する機運が高まります。芸術性を高め、普及することを目的として、新しい木版画の制作方法が模索されました。この二大潮流となったのが、創作版画と新版画です。これらが近代木版画発展の基礎となりました。

「浅草寺仁王門」(『江戸の門版画集』)

 『江戸の門版画集』は、前田政雄によって昭和11年から3年をかけて制作された版画集。明治期以降の災害と開発によって江戸期の風情が消えることを憂い制作された。

前田政雄
昭和11年(1936)から昭和14年

「隅田川」(『東京風景』)

 『東京風景』は、フランス人版画家のノエル・ヌエットによって制作された版画集。ヌエットがスケッチした東京の風景の中から24図を選び、土井版画店より出版された。

ノエル・ヌエット
刊行:土井版画店
昭和11年(1936)

Ⅰ 近代化の風景を刻む

 大正期以降、版画雑誌や指南書の刊行、版画家による全国各地での講習会などにより、木版画の制作が全国的に広がりはじめます。洋画家や日本画家たちも木版画に着手し、各地の版元たちの活動も活発になりました。
 大正12 年(1923)9 月1 日、関東大震災が発生し、南関東を中心として広範囲に被害がもたらされました。東京一帯は大規模な火災にみまわれ、在京の版画家や版元たちは版木やスケッチ帳、商店などを焼失しました。同月27 日に帝都復興院が設立されると、昭和初期にかけて復興が進められました。この復興計画により、東京では耐火・耐震を目的としたコンクリート製の建造物が増加し、都市が近代的な発展を遂げます。復興後の新しい東京の街並みは、版画家たちの創作意欲を刺激し、『新東京百景』と題した版画集が複数刊行されました。

【展示作品】『新東京百景』(昭和4年から昭和7年)、『新東京百景』(昭和11年)、『昭和大東京百図絵』(昭和5年から昭和12年)

「渋谷百軒店」(『新東京百景』)

 版画同人グループ卓上社によって制作された版画集。関東大震災の被害から復興した新しい東京を後世に伝えるために制作された。

前川千帆
昭和4年(1929)

「弁慶橋の春雨」
(『新東京百景』)

 昭和11年(1936)から制作が開始された川瀬巴水による版画集。中央市場や震災復興橋梁として再建された弁慶橋などが描かれている。

川瀬巴水
昭和11年(1936)

「第一景 永代と清洲橋」
(『昭和大東京百図絵』)

 小泉癸巳男によって企画・頒布された版画集。江戸・明治・大正と各時代の都市風景が木版画として伝わっているため、震災から復興した東京の風景も昭和版として残すべく企画された。

小泉癸巳男
昭和3年(1928)10月

「第二十八景 亀井戸天神の藤花と太鼓橋
(『昭和大東京百図絵』)

小泉癸巳男
昭和7年(1932)5月

Ⅱ 木版画による報国活動と版画集の制作

 昭和12 年(1937)に日中戦争が勃発すると、国民精神総動員運動が展開され、国民一丸となって戦争に勝つための体制が作られます。版画家たちも銃後のつとめとして、木版画の献納や慰問活動を行いました。木版画に選ばれる題材も銃後の生活や富士山、戦意高揚を促すものが増加します。版画集の刊行においても文化の進展や報国、慰問を意識した企画が練られました。
 戦争の長期化による物資不足が深刻化すると、次第に制作活動にも影響を及ぼします。昭和18 年5 月に、日本版画奉公会や日本美術及工芸統制協会をはじめとした美術団体が設立され、版画界を含む美術業界全体が統制されるようになります。
 昭和19 年以降、空襲が激化し、疎開をする版画家も増加します。疎開先でのスケッチや木版画の制作など、限られた状況と資源での制作活動を余儀なくされました。

【展示作品】『支那事変版画』(昭和12年)、『新日本百景』(昭和13年から昭和16年)、『聖峰富嶽三十六景』(昭和16年から昭和20年)、『版画カレンダー』(昭和18年から19年)

「第七篇 銃後婦人」
(『支那事変版画』)

 思成堂から刊行された挿絵画家・井川洗厓による版画集。日中戦争における戦地での出来事や銃後の生活風景が描かれている。

絵:井川洗厓
刊行:思成堂
昭和13年(1938)2月

「日向青島」(『新日本百景』)

 日本版画協会が木版画による文化の進展や報国、傷痍軍人への慰問を目的として企画した版画集。

川西英
昭和14年(1939)4月

「年頭の感」(『版画カレンダー』)

 日本版画協会会報などの印刷費捻出のため、同会会員有志により制作・頒布されたカレンダー。昭和19年5月、警視庁特別高等課の要請により頒布が中止、戦後に再開された。

前川千帆
昭和19年(1944)1月

「あか不二」(『聖峰富嶽三十六景』)

 小泉癸巳男が手掛けた、各地から見た富士山を題材にした版画集。全23図(昭和20年10月)で未完のまま遺作となった。

小泉癸巳男
昭和19年(1944)

Ⅲ 戦前への回顧と版画家たちの戦後復興

 終戦を迎えると、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれ、進駐軍が駐留します。戦前から海外で高い評価を得ていた日本の木版画は、進駐軍兵士からの人気を得て、需要が高まりました。進駐軍兵士やその関係者が版画家のアトリエや版元の商店に出入りし、土産物として木版画を買い求めます。
 版画界に活況の兆しが見え始めた一方で、空襲による国内各地の被害は甚大でした。眼前に広がる焦土を見た版画家たちは、焼け残った版木や材料を集め、戦前の光景を思い起こす版画集の制作に取り掛かります。昭和20 年(1945)12 月には有志による『東京回顧図会』が刊行されます。戦時下の統制により刊行が中止になっていた版画集も、次第に制作が再開されました。

【展示作品】『東京回顧図会』(昭和20年)、『大阪三十六景』(昭和22年)

「東京駅」(『東京回顧図会』)

 恩地孝四郎や平塚運一など、版画家9名による版画集。富岳出版社と同社の顧問を勤めた恩地が中心となり、新たな日本美術の出発点となるべく刊行した。

恩地孝四郎
昭和20(1945)12月

「1 大阪城」(『大阪三十六景』)

 

洋画家・赤松麟作による版画集。日本語のみと日英併記の目録が用意されており、併記版には土地の解説なども記載されている。

赤松麟作
昭和22年(1947)

みどころ

『支那事変版画』の肉筆画を展示!

挿絵画家・井川洗厓による『支那事変版画』の肉筆画を前後期合わせて2点展示いたします。
絵師の直筆による肉筆画と版画の違いをぜひ見比べてみてください。

肉筆画「第三編 千人針」

井川洗厓
昭和12年(1937)頃

肉筆画「第五編 支那事変銃後の護」

井川洗厓
昭和13年(1938)頃

『東京回顧図絵』全15点を一挙公開!

終戦直後に刊行された『東京回顧図会』全15点を展示いたします。
恩地孝四郎や平塚運一など、版画家9 名によって描かれた東京の風景をお楽しみいただけます。

二重橋

恩地孝四郎
昭和20年(1945)12月

夜の銀座

川上澄生
昭和20年(1945)12月

イベント情報

(1)ワークショップ スチレンボードで版画作り

日 時令和7年3月23日(日)、4月27日(日) 13:00~16:00
会 場3階会議室

(2)展示解説

担当者による展示解説を行います。

日 時令和7年3月30日(日)、4月20日(日) 14:30~(所要時間30分)
会 場3階特別企画展会場

お問い合わせ

〒102-0074 東京都千代田区九段南1-6-1 昭和館学芸部 高橋
TEL.03-3222-2577

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